夜の静寂

「海に行こう」
 と、彼はまるでちょっと近所に散歩にでも行くような調子で言ったので驚いた私はしばらく固まってしまった。
 その日はとても暑かった。ひどく寝苦しくて、家の窓という窓も、扉という扉も開け放っていた。けれど吹いてくる風は常に熱を孕んでいて、意味がないように思える。
「弥生くん。今日暑いね」
「そうだね」
 隣の彼に呼びかけると、締りのない声が返ってきた。彼もどうやらこの暑さにやられているらしい。
 私たちは年がら年中同じベッドで一緒に寝ている。私が彼の家にやってくるとき、自分用の寝具を持ってきたのだが、かなりの期間出していない。最後に使ったのは、彼と喧嘩したのが原因だったか。
 けれど毎夜同衾しているからといって、私たちの間にそのような行為が多いわけではなかった。むしろ少ない方であっただろう。
 私はそれで十二分に満足で、弥生くんもそうだった。私たちはともにそうすることが、本来の意味で互いを尊重し尊敬しあうことだと思っている。
 弥生くんは、弥生という名前だけれど三月生まれではない。それから彼は、自分の名前を好きじゃないようだった。彼は、女の子みたいな名前だから、と気まずそうに視線を逸らして以前そう教えてくれた。
 彼が海に行こうと言い出したのは「暑くて私眠れない」と呟いたからであった。小さく唸ったあと静かにそう言った。 
 弥生くんは一度物事を決めるとすぐに行動に移すタイプだ。彼は早々にベッドから起き上がって支度を始めた。
 一方私は突然の提案に唖然としていたが、暗闇にぼんやりと浮かんだ彼の色の白い背中にハッとして落ちそうな勢いでベッドを飛び下りた。 
*
 ここから海はそんなに遠くない。
「ねえ。どうして海なの」
「栄二兄さんが女性は海に連れていくと喜ぶんだって」
「へ、へえ……」
 思わず微妙な相槌になった。
 弥生くんは「兄さん」と呼んでいるけれど、栄二さんは彼の実のお兄さんじゃない。弥生くんの実家の真向かいに住んでいて、今は社会人をしている。弥生くんの小さかったころから、両親同士仲の良かったこともあって、遊び相手になってくれたらしいのだ。だから弥生くんは親しみと愛情をこめて「兄さん」と呼ぶ。
 栄二さんとは一度会ったことがある。
 健康的な小麦色の肌にくっきりと通った鼻筋、清潔に切りそろえられた短い髪に男らしい人だなと思った。そしてそれは外見だけではなく、性格にも当てはまっていた。弥生くんが私を紹介するやいなや、痛い痛いと訴えるのを無視して豪快に笑いながら肩を叩いていた栄二さんは今でもよく思い出す。
 ラジオをつけると今日は今年一番の熱帯夜だと言って、こんな暑い夜には怖い話で涼しくなりましょうと不気味な音楽とともに怪談話が流れ始めた。
 私はMCが稲川淳二風に読み上げていく怪談を聞きつつ弥生くんの横顔をこっそり盗み見る。弥生くんの横顔は静かで、フロントガラスの一点を見つめていた。いつもの森で草でも食べていそうなやわらかな雰囲気はそこにはない。
 私は彼のそんな表情も好きだった。その表情を見ることができるのが数限られた人だけだということを考えたとき、私の中の独占欲は満たされる。
 そうこうしているうち海に到着した。
 ドアを開けてすべるように車から降りると、独特の香りが鼻に流れこんでくる。
「このにおいを嗅ぐと海に来たって感じがしない? 潮の香りっていうのかな」
「俺にはちょっと強すぎるよ」
 時間も時間なので広い駐車場には私たちの車しかない。一瞬だけ黒のラパンが、昔読んだおとぎ話の森の中に置き去りにされる少年少女の話と重なった。
 浜辺まで行って水面を覗きこむと、海は恐ろしく黒々と波打っていた。じっと見ているうち、気づいたときにはもう波に呑まれたあとだった、そんな考えが頭をよぎって私は後ろに一歩下がった。
 ふと先ほどのラジオで海の話があったことを思い出す。夜、海のそばにいると「おうい」と呼ばれることがあるという。それに答えてはいけない。
「佳代」
「……っ」
「どうした?」
「ごめん。ちょっとびっくりした。急に呼ばれたから」
 そのとき一際強い海風が吹いた。ぎゅっと目をつむれば瞼の裏に昼間の海が浮かんでくる。
 はしゃぐ子供の声。たくさんの水音。照りつける太陽の光。
 今は見えない景色がそこにはある。
 そろそろ帰ろうか、と言う弥生くんの手をそっと握りながら私は小さく頷いた。


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