三成読本(上)

 目覚まし時計が起床の時刻を告げる。六時。
 藤色のカバーのかかった布団の中から出てきた白い腕が、それをやや乱暴に止めた。そしてまた、引きずるように腕を布団の中へ戻していく。
 三成はひどい低血圧の人だった。だからまず、彼はあらかじめ六時に時計が鳴るように設定しておき、意識がある程度覚醒するのを待って布団から出ることにしている。いつも約三十分を要する。
 布団から出ると次は学生服一式を持って、二階の自分の部屋から一階にある洗面所に向かう。洗顔と、髪のセットのためだ。
 寝起き直後の三成は、日中の彼とは大分印象が違う。覇気がない。
 朝が弱いことももちろん原因の一つであろう。しかし、まだ他の理由がある。髪形である。
 普段の彼のヘアセットはとても特徴的だ。水鳥の嘴のような前髪をしている。
 以前夕食のときであったか家人に、君これと似ているね、とテレビ画面に映っていたハシビロコウなる鳥を指さされ、笑われたこともあった。
 それが今では跡形もなく崩れてしまっている。
 一度水で前髪全体を濡らしてから、ドライヤーを使って形を作りながら乾かす。そのあとにワックスをつけ、仕上げにヘアスプレーも。
 大がかりな身支度はここまでだ。自室から持ってきていた制服に着替え、寝衣を洗濯機に入れて終了。
「秀吉様、半兵衛様。おはようございます」
「うむ。おはよう三成」
「おはよう三成君」
 リビングに入るなり三成は頭を垂れてそう挨拶をする。それから彼には一向に体勢を元に戻す様子がなかった。
 半兵衛は、それにまるで聖母とでも呼べるような微笑を浮かべると
「早く食べないとせっかくの朝ごはんが冷めちゃうよ」
「は、はっ!」
 そこでようやく三成は顔を上げて食卓についた。
 一連の流れを見ていた秀吉の頬がわずかに緩む。毎日こうなのだ。三成は知らないが、秀吉の頬の緩みに気づいた半兵衛は君も丸くなったものだね、と小さく呟いた。
 三成は半兵衛と秀吉に対して深い尊敬の念を抱いている。もはや崇拝といっていいかもしれない。
 秀吉と半兵衛は三成の親代わりだった。三成の実の両親は、彼がまだ年端もいかなかったころに自動車事故で亡くなってしまった。
 誰が残された三成を引き取るのか。進んで手を挙げる者がいなかった中、半兵衛だけが申し出をした。
 半兵衛と三成の両親がどのような関係だったかといえば、三成の父が勤めていた会社のかつての同僚、であった。かつて、、、というのは、半兵衛曰く「出会った瞬間に運命を感じたんだ!」と彼が豪語する秀吉と出会い、二人で新しく会社を設立したからだ。豊臣商社という。今やその会社名を知らない者はいないほど、有名な企業へ成長していた。
 話を戻そう。
 半兵衛は三成の父を慕っていた。(それが決定的に現れたのが秀吉であろう)三成の父も父で半兵衛を気に入り、半兵衛が秀吉と会社を立ち上げたあとも彼らは何度か顔を合わせている。
 写真とともに話を聞かせてもらったことはあったが、実際に半兵衛が三成を見たのは通夜が最初だった。
(たしかに賢そうな顔だ)
 涼やかな目元。鼻筋のしっかり通った鼻。きゅっと強く引き結ばれた唇。
 まだ親恋しい歳だろうに、彼はその表情を凛々しく保とうと努めていた。自分が泣いてしまえば、きっと両親が心配すると思っているに違いない。半兵衛は急に、自分の慕っている先輩の面影を残すこの子供が欲しくなった。
 数年前から紆余曲折をへて、秀吉と半兵衛は会社の近くに建てた家でともに住んでいる。どちらにも子はいない。秀吉は結婚こそしていたものの、妻であったねねは病気がちで結局子供ができる前に彼女はこの世を去ってしまったのだ。半兵衛は端から結婚などしなくてもいいと思っている。けれど彼らは、将来自分たちの会社を担うにふさわしい人材を必要としていた。そこに突如舞いこんで来たのが三成の両親の死と後見問題である。
 当然血縁のない者がしゃしゃり出てくるなという声が上がったが、結局のところそんな発言も自分たちの世間体を守るための建前にしかすぎない。半兵衛の巧みな話術にかかれば、その脆い建前などすぐに崩れてしまったのだった。
 三成を会社の後釜にすべく半兵衛はさまざまな教育を施した。光源氏計画、と言うと聞こえが悪いかもしれないが、若紫が光源氏の掲げる理想になろうとしたように、三成も半兵衛に懸命に答えようとした。
「それでは行って参ります」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけて」 
 朝食を終えた三成は食器を流しに置いて再び自室に戻り、学生鞄と部屋の隅に立てかけてあった竹刀を手に取った。三成は剣道部なのだ。そして起床始めのときとはうってかわった足取りでまた下へと降りていった。
 リビングの入り口に立って声をかける。半兵衛が言葉を返すと、三成は唇が自然と弧の形になるのを感じた。
 彼の遠ざかっていく後ろ姿を微笑み見ながら「僕たちもそろそろ行こうか、秀吉」と半兵衛が言った。




 外に出た三成は、まっすぐ学校には向かわず家の裏手の路地に回りこんだ。
 五分足らずを歩くと洋風な家が多く建ち並ぶ中に、日本家屋が見えてくる。まるで我が家のように三成は玄関の扉を開けた。
「刑部。来たぞ」
「そう大声を出さずとも聞こえるわ。ほれ、今日の弁当よ。たんと食え」
 刑部――本名、大谷吉継。
 三成は吉継のことを刑部と呼んで慕っていた。なぜそう呼ぶのかは本人もよくわからないらしいが、とにかく刑部は刑部だと言う。
 三成と吉継の出会いは数年前に遡る。三成よりも七歳年上の彼は、友としてはもちろんのこと、兄として時には親のごとく三成と接してきた。半兵衛と秀吉を除いて唯一、三成が言うことを聞く人物でもある。
 三成は弁当を受けとるために毎朝吉継の家を訪れている。彼は時間の無駄だと言って、放っておけば食事をとろうとしないことがあった。これは非常にまずい。心配した半兵衛が吉継に相談すると
「では我がお作りしよう。それならきっと残さず食べてくれるであろ。三成は良い子ゆえな」
 そういうわけで吉継が三成の弁当係になった。
「今日もしっかり励んで来やれ」
「ああ」
*

 路地を抜けて三成は広い道へと出た。その道をずっと西に行ったところに三成の通っている高校がある。
 十分ほど歩いたころであっただろうか。コンクリートで舗装されているにも関わらず、砂埃の立つ幻が見えそうな勢いで誰かが三成のもとへ走ってきた。
「三成様―っ! おはようございますーっ! 島左近がやって参りましたー!」
「黙れ左近。朝から騒々しいぞ」
「今日も三成様はかっこいいっすね! ヘアスタイルもばっちり決まってるっす!」
「人の話を聞け!」
 茶とマルーンの明るい髪色。見事な腰パン。まだ春先の肌寒さが残る時分だというのに、ジャケットを羽織っていない。ネクタイもしておらず、ワイシャツのボタンは胸元まで開けられていた。
 いかにも今時の若者の風貌である。
「あ、そうだ聞いてくださいよー昨日勝家が――」
「左近!」
 左近は三成の一つ下の後輩にあたる。
 左近には、かねてから憧れを抱いていた高校に入ったまではよかったが、いざ入学してみると自分がここでなにをしたかったのか分からなくなっていた過去があった。アイデンティティーの喪失。思春期には珍しくない。
 そんな折、彼が見たのが生徒会長として辣腕を振るっていた三成だった。彼の一切迷いのない采配に左近は一目で確信した。この人の下で働くのがきっと自分のやるべきことなのだ、と。
 彼はそれ以来、三成が秀吉と半兵衛を慕うのと同じように三成のことを慕っている。
 三成も最初こそ苦々しく思っていたが、いくらあしらっても自分を追いかけてくる左近に情を覚えて、今ではこのように小言を言いながらも仲良くやっていた。傍から見れば、大型犬とその飼い主のようであったが。
「それでそれで慶次さんも――」
「今すぐその騒がしいさえずりをやめろ! 口を縫いつけられたいか!!」
 春の暖かい日差しのもと、三成の拳骨が左近に加えられた。


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