没倫エレジー

「まだ残ってたのか」
「先生」
「ほら。もう遅いから。早く教室から出て」
「はあい」
読んでいた文庫本を閉じて時計を見る。六時。
先ほどまでは窓の外で運動部の人たちが活動していたのに、今はまるでそこだけ時間が止まってしまったかのように静寂が訪れていた。そういえばしていた賑やかな声も、いつしか聞こえなくなっていたことを思い出す。
「こんな時間までどうしてここに」
「見ての通り本を読んでいました。少し読んだら帰るつもりだったんですけど。どうにもやめ時がわからなくて」
本当は手にしていた文庫本は一ページたりとも先に進んではいなかった。
スクールバックを肩にかけながら先生の目の前に立った私は
「……というのは嘘で、実は先生にお話があって」
「話? 俺に」
「ご結婚、おめでとうございます」
先生が結婚することになった。相手は同じ学校の美術の桐山先生。
その話自体は二学期の最初の頃から出ていたらしく(生徒に飛び交うようになったのはここ一ヶ月ほど前からだった)中途半端な時期ではあるが、三学期から先生は姉妹校に異動してしまう。
明日は終業式で、受験が一足先に終わってしまった私は、冬季補習にも出る必要がないので年が明けるまで学校に来ることはない。
つまり今日は私が先生とゆっくり話すことのできる最後の日であった。だから私は言いたいことを持って待っていたのだ。
待っておらずとも、準備室に行くという選択肢もあった。けれどそれはやめた。決意が揺らいでしまうのも、ひょっとしたら泣いてしまって先生を困らせるのも嫌だったから。でも一番は、自分自身にけじめをつけるのだと擦り込ませるためだった。
「うん。ありがとう」
先生が言葉を紡ぐたびにほけが上がる。
冬の教室は寒い。スリッパごしでも床の冷たさが分かるようだった。
ふと先生の左手の薬指を見る。そこには真新しい翡翠の指輪がはまっていた。
結婚指輪というとやはりダイヤモンドのイメージが強いが、翡翠は身につけている人の色に変わる、とどこかで聞いたことがある。先生はこういうことには無頓着だから、きっと桐山先生の意向なのだろう。
「話は、もうそれだけ?」
私と先生の間には身長差がかなりあるので、先生が私の顔をまっすぐ見ようとすると自然と腰を落とす姿勢になる。
ただ尋ねただけなのか。それとも何らかの確信のようなものがあったのか。
私はたしかに「おめでとう」と伝えたかった。それを伝えたくて待っていた。待っていたけれど、それだけでは足りないことがある。
「……いえ。先生。あと一つだけ」
冷たい冬の空気を吸って
「私、やっぱり今でも先生のことが好きです」
言ってしまったあと、私は先生の顔を見ていられなくなって、廊下の窓から見える夕焼け空に視線を移した。
オレンジの絵具を空にぶちまけたようなそれは、絵具が空から雨のように地上に降ってくるのではないかという錯覚を覚える。でもきっと、雨よりも濃くてドロドロしている。
「俺があのとき。君に言ったことを、君は忘れたわけじゃないだろう」
「それは、もちろん」
去年の夏。暑くて埃くさい準備室で。

「私、先生のことが好きです」

呼吸、今でもそんなごく自然な行動をするのと同じように、それと意識せずとも脳内に記憶が浮かび上がってくる。
「俺は君が嫌いだ。そういう意味では嫌いなんだよ。俺は君を好きなることはできない。先生はそうやって。私はそれが傷ついた。いっそすべてを否定されたほうが救われたのに」
私は別にこうやって過去のことを今になって掘り返したいわけではない。先生を責めたいわけでもない。
ただ、
「俺になにをしてほしい」
「……手を、つないでください」
小学生のような要求だ、と思う。
夕陽はもう少しで沈んでしまいそうだった。
本当に絵具が降ってきたように柑子色に染まったグレーのスーツに覆われた腕が動いて、控えめに先生の手が私のそれに触れた。
「ねえ。一つだけ聞かせて」
「はい」
「いつからだった」
なにが、とは先生は言わない。
けれどそれだけで私には十分だった。
「間抜けな私が入学式を休んだその翌日に、先生が教室まで送り届けてくださったときから。ずっと。一目惚れだったんですね。いいかげんかもしれませんけど。私、先生に褒められたくて、先生の教科だけは頑張ってたんですよ。授業もテストも、模試だって」
初めて触れた、だけど今日でもう二度と触れることができなくなる先生の手は、大きくてごつごつして骨ばっている。私の手の幼さがよくわかってしまうと同時に、年齢の違いを思い知らされた。
(泣かないって、決めてたのに)


「どうしてもっと早く生まれてこられなかったのかな」
誰ともない呟きは左頬を伝う感情とともに床に落ちていった。


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