幾久しく、

1994年に桂由美が会長を務める全日本ブライダル協会が、六月の第一日曜日を『プロポーズの日』と制定している。プロポーズは個々の事情などが大きく作用するが、なかなか踏み切れずにいるカップルにとってきっかけになれば……という考えから提唱している。(Wikipediaより)



「ごめんなさい。待ちましたか」
「仕事の書面をしていた。気にしなくてもいい」
大学から少し離れた路地に駐車されていた車を見つけ、アスファルトを昨日買ったパンプスで鳴らしながら近づく。窓を叩くと鍵の開く音がした。
「今日は少し肌寒かったですね」
「そうだな」
パソコン画面から目を話した先輩が静かにそれを閉じる。スーツの胸ポケットから鍵を取り出し、慣れた手つきでエンジンをかければ車が静かに発進した。
先輩は私より二つ年上の社会人一年生さんだ。だが、非常に優秀であるのか新人にしては結構な地位に収まっているらしい。
“先輩”と言うのは、高校時代にそう呼んでいたから。紆余曲折あって付き合うことになり、大学も違うところに進んでしまったし、名前でとは思ったけれど、妙に落ち着かなかった。なんだかそれに響きが好きだったのだ。先輩、って響きが。
「何を見ているんだ」
「ん、ああ。インターシップの資料です」
信号が赤色に変わる。前方に注意のいっていた先輩の視線が私の手元をとらえていた。
「就職活動、か。そうか。もうそんな時期だったか」
「早めに準備しておいた方が後で楽かもしれないですから。卒論もありますし」
「……変わらないな。お前は。和泉は変わらない。とても素晴らしいと思う。和泉のそういうところを好ましく思う」
「先輩に褒めてもらえるのは何年たっても嬉しいですよ。私」
「それは良かった」
先輩は安全運転の人である。緑に信号が変わり、右足で優しくアクセルを踏んでゆっくりと車が走り出した。
「希望はあるのか」
「出版社は素敵ですよね。倍率高いですけど。でも頑張ってみます」
一通り目を通し終わったプリント類を透明なファイルに入れる。そうしてそれを勉学の道具が詰まっている鞄にしまった。すると急に手持ちぶさたになり、どうしようかと考えた末に先輩のお顔を観察することにした。
(先輩は本当に綺麗)
私は人の横顔を見るのが好きだ。先輩のは日本人よりもどちらかと言うと外人さんに近いもので、非常に目の保養になる。色白だし睫毛長いし。うなじは今日もお美しい。
「……和泉」
「はい。なんでしょう」
彼の薄い唇が名前を呼んでくれる度、私の心の蔵は揺れる。
「…………ずっと考えていたのだが」
「先輩?」
ハンドルを握っていた右手が離れ、口を包むようにして覆う。これは言おうか言わまいかどうしようかと迷っている際によく見られる彼の癖だ。大人しく見守っていなければならない義務が私にはある。
そうして数十秒後。
「就職、しないか」
「は」
口から乾いた声が漏れる。
先輩は非常に崇高なお方だから、凡人である私の想像やら考えやらの範疇を超えてしまうのも当然かもしれない。しかし、三百六十度、あらゆる方向から客観的に見たとしても、到着地点はたった一つではないだろうか。
「……お言葉かと存じ上げておりますが。先輩。私たちは今までどのようなお話をしていたのでしょう」
聞きながら先輩の顔をうかがう。先輩の口元は強く引き結ばれていて、何もおっしゃるような様子はなかった。もう一度私は「先輩?」と声をかけてみる。と、突然車のスピードが落ち、わき道へとそれてゆく。しばしそのまま走り続け、閑静な住宅街を抜けると少し広い場所で止まった。
先輩はまたあの癖をなさる。車内という狭い密閉された空間の中に沈黙が降りた。普段もあまり分からない人だけれど、今日はよりいっそう私には彼が掴めない。きっと多分やはりそれは先輩が偏に聡明であるからだろう。
「私に就職しないかと。そう言っている。和泉が大学を卒業したら。永久に」
やがて意を決したような瞳をした先輩が口になさったのはこれだった。
「先輩に……」
私は首をひねる。就職。先輩に就職。先輩に、就職。永久、就職。……社畜? っていやいやんなわけあるか。あれだ。あれだろ。プロポー――
「プ、プロポーズです、か?」
嗚呼。自分で言っといてなんだが、徐々に恥ずかしさが襲ってきた。羞恥心で死ねるって今なら分かるような気がする。穴があったら入りたい。むしろ入るべき穴を掘りたい。
「和泉に一緒になって欲しいんだ」
私の手を取って食い入るように私を先輩が見つめる。私はただ固まっていることしかできなくて。先輩はそれで何をお思いになったのやら、悲しさの混じった表情で「いけないのか。駄目なのか。分不相応なのか。和泉にふさわしいのは俺だけだと思っていたのは、俺だけ、だったのか……?」とおっしゃって手をお放しになろうとした。
瞬間に私が覚醒する。今度は私の番だった。先輩の息を呑む音が耳に届いた。
「いけないわけないです。駄目なわけないです。分不相応なんかじゃない。私はね。先輩。先輩になら。私の全部を捧げてもよいと。身体を。血液も細胞も私を構成している肉片の一つ一つを。心を。全部、すべて、すべて」
嬉しかった。私はこんなにも彼に愛されているのだと。彼は愛してくれているのだと。
つうと頬に温かさを感じ、涙だと知ったのは少し経ってからだった。
「え、わ……と、とまんない……」
ごしごし目をこすってみても次々と溢れ出てくる涙。人前で泣くなんて。しかも先輩の前で。
「あ」
柔らかな優しい香りが鼻腔をかすめる。紫苑の匂いだ。私がいつしか贈った香水の。花言葉である『どこまでも清く』がとても彼らしかったから。
親指の腹で先輩が涙を拭ってくれる。唇同士が触れ合って、先輩が自分の胸に私を押しやった。私は堪らず先輩の腰に腕を回した。



「ありがとう、和泉」


inserted by FC2 system