All is fair in love and war

丸川書店エメラルド編集部の一編集者である小野寺律は、大通りを人の波に逆らって歩いていた。
今年最後の入稿を終え、今まさに会社へと戻っているのだ。
今回の修羅場は三本指に入るほどの酷さだった。
聞いたときは、馬鹿か、と思ったが、やはり出版関連は24時間365日無休にした方がいい気がする。
最後に寝た日はいつだったかなど無粋だ。
緩い坂道の先に丸川書店は鎮座している。
終電が迫りつつあるこの時間帯には、人もあまりいないらしく社内から漏れ出す明かりは点々と灯っているだけ。
自動ドアを潜って中に入ると温風が体の横を突き抜けて行った。
(いっそのこと会社で泊まってしまいたい……でも明日って土曜日なんだよな……)
「あら、小野寺君じゃない。今からまた仕事?」
「えーと、まあそんなところです」
編集部へ向かうために待っていたエレベーターの扉が開き、女性が一人出てきた。
確かサファイア文庫の編集さんだったはず。
「相変わらず大変ねえ。それじゃ頑張って。新、人、君」
「ははは、どうもー」
俺は彼女に苦笑いをしつつ一礼をしてエレベーターに乗り込んだ。
エメラルド編集部は四階に位置しているので階段で行くという選択肢はまず消されてしまう。
二階ほどならばありがたいのだが。
正直あまり好きではない。
密室空間がどうにも戴けないので。
……早く帰りたいなあ。

「小野寺です。ただいま戻りました」
ほろ苦い芳香が鼻腔を掠める。
一体これで今日何杯目か。
飲みすぎは逆に毒だと再三言っているのに。
声を掛けられた高野さんは、一度だけこちらを見やった後、無言で手にしていたマグカップを置いて何故か自身のコートとマフラーとカバンを引っ掴んだ。
そして、無言でたった今俺が通ってきた道をすたすたと歩いてく。
突然のことで状況が飲み込めなかった。
入稿が終わったら、会社に来い、という内容のメールを受け取っていたからだ。
頭に疑問符を大量に浮かべながらも、律は必死に言葉を振り絞り大声を張り上げる。
「高野さん!? 何処行くんですか!! 仕事の話するんでしょ!!」
呆れと少しの軽蔑が振り向いた顔に混ざっていた。
端整な唇から「は? お前何言ってんの?」と聞こえてきそうな感じである。
「え……いや……いつもは直帰だから、今日は何か重要なことがあるのかなって思いまして……」
「あーそっか、なるほどな。戻させたのは仕事の話したかったからじゃねえよ」
「は!?」
とんでもない勘違いをしていたようだ。
穴があったら入りたいとはよく言ったものだが、むしろ今は掘ってしまいたい。
第一高野さんも高野さんだろう。
そうならそうときちんとメールに書いて欲しかった。
羞恥と怒りが脳内を支配していく。
そんな様子に気づいているのかいないのか数メートル先に立っている男はサラリと告げた。
「今日車で来たから一緒に帰ろうと思って」
隠しきれなくなってきていた苛つきが眉根に皺となって現れる。
暫しの沈黙が二人の間に流れ込んだ。
恐る恐る律が切り出したときには、少なく見積もっても数十秒はかかっていただろうか。
「あの……まさかそれだけのために呼び戻したんですか……?」
「そうだけど」
次の瞬間には立ち止まって俺の方を見ている彼を早足で抜かして「ふざけないで下さい!」と叫んだ後、エレベーターへと続く道を急いでいた。
ああ最悪。
仕事の話かと思っていた自分が馬鹿みたいだ。
後方から高野さんが呼び止めているのが聞こえる。
それを振り払うように首を数回左右に振って、角を曲がろうとしたところで人にぶつかってしまった。
「何だお前か。いってーな。ちゃんと前見て歩けよ」
顔を見ずとも、頭上から降ってくる声だけで誰なのかが容易に分かってしまう。
あまり会いたくない人物。
「すみません……横澤さん」
かっちりと着込んだスーツ。
切れ長の目は細められ不快感を露にしている。
「政宗はどこだ?」
「えっ!? えと後ろに……」
「そうだ後ろにな。お前の、すぐ。逃げてんじゃねえよ小野寺」
全身の毛が逆立った。
近づいてくる足音はしていなかったのにどういうことなのだ。
「たったた高野さんじゃないですか!! ちょうど良かった。横河さんが高野さんに用があるみたいですよ。では、俺はこれで失礼しますね!! おやすみなさい!!」
逃げてしまいたい衝動を抑え早口で一気にまくし立てた。
そうして踵を返し走り出す。
「律!! 車の前で待ってろ!!」
止めてください。名前で呼ばないでくださいよ。また、流される――


「何? 待っててくれたの?」
「違います!! 終電に間に合わなかったんです!!」
嘘をついたことになる。
本当は、あのまま走っていたら間に合っていたのだから。
しなかったのは他ならぬ自分の意思。
「ふーん。あっそ。つか早く車乗れ。帰るぞ」
「失礼します……」
辺りの静けさをエンジン音が破った。
ゆっくりと車体は動き出してゆく。
「…………」
「…………」
(どうしてこう、会話がいつもないんだ。やっぱり電車で帰るべきだったのかも)
でも、それでも、やっぱり、少しでも高野さんと一緒にいたくて。
本人には一生伝えるつもりなんか無いけれど。
「あ」
「小野寺? どうした?」
車窓から見えるイルミネーションを見ていてあることを思い出した。
とても大切なこと。
明日――じゃなくて今日。
今日は
「誕生日だったなあって。高野さんの。あー、その、おめでとうございます」
「よし、デートしよう」
「え?」
「だからデートしようつってんの。耳、大丈夫か?」
「っ相変わらず失礼な人ですね!! デートなんてしません!! というか去年ドライブしたでしょうが!!」
たった三文字のその言葉の中にはキラキラやフワフワ、ときめきが詰まっているのだと若かりし頃に信じていた。
好きな人と出来るならば、きっと素敵なんだろうなとも。
そうか。
去年のクリスマスから一年経ったんだ。
歳を重ねて行くにつれ月日が経つのが早く感じるのはあながち間違っていないのかもしれない。
「断るなら仕事量三倍確定」
「そろそろパワハラとセクハラで訴えますよ。俺のことイジメて楽しいですか?」
「好きな子ほどイジメたくなるんだよ。この男心お前に分かんねえかな」
やっぱりこの人性格悪いだろ。
分からないです。
男だけど。
我ながら面倒な性格になったものだと日々悩んでいる。 
単に素直に了承することができないだけで、消して嫌なわけではない。
「まあいいや。無理矢理にでも付き合ってもらう予定だったしな。何処行くか考えとけ」
「知りませんよ……」



「割と面白かったな」
「原作の雰囲気も壊れてなかったし、良い感じでした」
結局、律は朝の八時半に迎えに来た政宗に半ば拉致られてデートをしていた。
ちょうど映画を見終わったところだ。
『どうして縁日でひよこを売っているのか』
原作は彼の宇佐見秋彦大先生作の小説。
忘れもしない高校時代。
思い出したくない思い出がいっぱいなのだが、高野さんと付き合い始めてこの本と出会った。
俺のお気に入りだからと、当時どんなことでもいいから近づきたかった俺は勿論借りて、自分でも買い常に手元に置いていたものだ。
それは今でも大切に本棚に納めてある。
……覚えいてくれてるんだろうか。
「そうだ。気づいたことがあったんだけどさ」
「? 何をです?」
「あの本貸したよなーって。学生のとき。どうせお前、忘れてんだろうけど」
心臓が大きく跳ねた。
脈が徐々に速くなっていく。
高野さん覚えててくれてたんだ。
それだけのことなのに嬉しくてたまらない。
改めて実感をした。

俺は、やっぱり、高野さんが、好きだ。

「本……ありがとうございました。一緒に見に来られて良かったです。それで……えーと……ご誕生日おめでとうございます」
彼のシートベルトから離された両手が頬を包む。
ゆっくりと目を閉じ悦楽の時間を待った。
「律。ありがとう。愛してる」
理性を手放す直前に目にした、先輩の満面の笑みをきっと俺は一生忘れない。


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