僕たち海洋生物系男子!!

「駄目だ。まったくわからない」
ぼふん。音をたてながら真琴が開いていた数学のワークに突っ伏す。もう本当に、絶望的に、わからなかった。問題文からして意味不明なのだ。
夏休みが始まった。
多くの学生たちが、やれ海だのバーベキューだの夏祭りだのと様々なイベントに心躍らせる毎日。しかし、遊んでばかりなのも当然よろしいことではない。課題という非常に憎らしいものが、休みが始まると同時に襲来してくるからである。
そんなわけでスイミングスクール組――七瀬遙と橘真琴と葉月渚の三人も集まって夏季課題をこなしていた。
「数学なんてその時々にあった公式使うだけだろ。どこが難しいんだ」
いつも通りの無表情で遙が言う。だが、手元にある日本史の問題集はまったくと言っていいほどページが進んでいなかった。
「俺みたいなバリバリの文系脳はどの公式を使えばいいのかまずそこからがわからないんだよ……」
「秒速一センチの速さで動く謎の点Pとかあったよねえ」
「あと池を周回するだけの兄弟とかな。数学って不可解なこと多すぎると思うんだけど」
「ほんとだよね!」
庭に面している部屋だからだろう。蝉のけたたましい鳴き声が耳に近い。
真琴は汗で額に貼りついた髪をはらいながら
「ハル。やっぱりクーラーつけないつもりなの」
家も近いため、ほぼ夏休みは毎日ともに過ごしている二人であったが、未だ真琴は遙の家でクーラーによる洗礼を受けたことがない。遙曰く、暑いなら水風呂に入ればいいじゃない、とのことだ。ゆえに唯一の涼みは真琴が説得してなんとか置くに至った扇風機のみ。これも結構な年代物ではあったが。
「真琴。死んだ婆ちゃんが言ってた。心頭を滅却すれば火もまた涼しって」
「心頭滅却しても暑いものは暑いんだよハル……」
「ねえ、マコちゃん。古典教えて」
パタンと英語のワークを渚が閉じる。勉強会を始めてから三時間ほどが経過しているが、渚はその間するする課題をこなしていた。渚は要領がよかった。
「古事記?」
イザナギがイザナミに会うために黄泉の国へ行く。渚が教科書で見せたのはその場面であった。
国産みの神であるイザナミは、火の神であるカグツチを産んだために陰部に火傷を負って死ぬ。
しかし、イザナギはイザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉の国まで会いに行った。黄泉に着いたイザナギは戸越しに「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していません。帰りましょう」と言う。対してイザナミは「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、生き返ることはできません」と答えた。
さらに「黄泉神と相談しましょう。お願いですから、私の姿は見ないでくださいね」と、家の奥に入った。
イザナミはなかなか戻ってこなかった。ついに我慢できなくなったイザナギが約束を破って見てしまったのは、腐敗してうじにたかられ、八雷神やくさのいかづちがみに囲まれたイザナミの姿。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ、八雷神、黄泉醜女よもつしこめらに髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木を投げてイザナギは難を振り切った。
イザナギが黄泉の国と地上との境の 黄泉比良坂よもつひらさかを大岩で塞ぎ、その時に岩を挟んで二人が会話をする。イザナミが「お前の国の人間を一日千人殺してやる」と言うと「それならば私は一日千五百の産屋を建てよう」とイザナギが返す――そんな内容だ。
「なんで黄泉の国の物を食べちゃったら生き返れないの」
「黄泉の国の物を食べると、黄泉の住人になるとされていたんだ。よもつへぐいって言うんだよ」
「へえーあ、マコちゃん僕の分も」
真琴がすっかりが空になってしまったコップを持って立ち上がる。それに目を留めた渚は自らもコップを持ち、真琴に差し出した。入れてきて、というサインであろう。
勝手知ったる他人の家。コップ二つに新しい氷を入れて麦茶を注ぐ。夏に無性に麦茶がおいしいと感じるのはどうしてなのか。
「今度の日曜日どこか遊びにいこーよ! 水泳部のみんなで!!」
「行かない。俺は海で泳ぐ」
「毎日部活で泳いでるでしょーねー、いこーよお。僕水族館がいいなー」
休憩を決め込んだ渚が遙に遊びの相談をし始めた。縋るよう遙の背中に自分の頭をぐりぐり押しつけて。
「嫌だ」
「行こうよ、ハル。せっかくの夏休みなんだし」
戻ってきた真琴が麦茶でいっぱいになったコップを机に置く。幼馴染も優しく語りかけたが
「嫌だ。行かない。四人で行けばいい」
やはり返事は変わらなかった。
(どうしたら……)
しばしの沈思。そうして昨日商店街で挑んだ福引の戦利品を思い出した。
「遙さん。遙さん。俺は今、市民プールの無料券を持っています。ハルが皆と出かけるならば、これをハルに差し上げましょう」
にわかに輝き出す遙の瞳と赤くなる頬。
「さっすがマコちゃん☆」

彼らの夏はまだスタートを切ったばかり。


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