さよならオルタナティブ

「話って、なに」
「ああうん。心配しないで。今日は全部俺が払うから」
「別にそういうのはどうでもいいんだけど」
部活が終わった後、少し話したいことがあるんだ、と真琴が遙に告げた。なるべく落ち着いた場所で話したい、とも。
それで彼らは学校から少し行ったところの路地裏にある喫茶店に向かうことにした。
そこには時々水泳部五人で連れ立って行くこともあったが、訪れるたびに閑古鳥が鳴いているような店だった。
扉を開けると、ドアチャイムがカランカランと音を立てる。あいかわらず人はいない。
黒を基調にした膝丈までのワンピースに、控えめなフリルのついた白いサロンエプロンという制服姿に身を包んだ店員が二人の前にやってきて
「どうぞお好きな席へおかけください」
と言った。
夕暮れ色の照明で満ちた店内は静かで、歩けば足音がまるで山彦のように耳に跳ね返ってくる。
二人は一番奥の席に腰を落ち着けた。
「……俺はもう、ハルとは友達でいられないかもしれない」
席に着いてからも、注文した品が届いてからも、なかなか切り出そうとしなかった真琴についに業を煮やした遙が促して返ってきた言葉がそれであった。無理に絞り出した声。顔は骨ばった大きな両手で覆われていて、その下でどんな表情をしているのかは分からなかった。
おどおどしている真琴に遙はいつも通りの平坦な口調で
「どういう意味だ」
「意味って、それは……」
頭を俯けながら。
手が顔から外されて、それは代わりに制服のズボンを強く握った。しわが寄ってその部分の色が濃くなる。
何か言わなければとは思う。思うけれど、何も出てこない。言いたいことがたくさんあるのに。我先にと、喉に向かって駆け上がってきた全部は詰まってしまった。
ただでさえ静かな店内だ。二人の会話が途切れてしまえば、音はなくなってしまう。
最初から世界に音なんてなかったのではないかという錯覚さえ覚えるような、そんな空白の時間が続いた。
「真琴。昨日鯖安売りしてて、いっぱい買ったから。だから今日は俺の家で食べていけ」
真琴が弾かれたように頭を上げた。反動で年代物と呼ぶにふさわしい木製の椅子がギシギシ鳴く。
基本あまり遙は人に気遣いをしない。本来それは真琴の役割のはずだった。
「……ごめん。ありがと、ハル」
少々ぎこちなくだが、ペリドットの瞳に細い弧が描かれる。
その時今日初めて真琴の笑った顔を見たということに、遙は気づいた。
*
真琴は幼い頃から遙を慕っている。しかしたしかに慕っているけれど、それ以上の感情を遙に対して抱くようになっていたのも事実だ。
気づいてしまったから。もう友達ではいられない。
橘真琴は七瀬遙にすべてを懺悔する。
「俺、ハルが好きなんだ。愛してる。だからこのままでいることは、俺には、できない」
和室。木製の茶色い座卓を挟んで向かい合う二人。
「唐突だな」
喫茶店のときと同じく遙の口調は平坦だった。驚いた様子もなければ、動揺しているそぶりもそこからは見受けられない。
逆に不安になった真琴が
「気持ち悪いって。思わないの」
「なんで」
「男同士で好きとか。愛してるとか。それに俺とハルは幼馴染だ。昨日まで親友だった。そんな相手にいきなり言われて。思うのが普通だよ」
喋れば喋るほど思考がぐちゃぐちゃになっていく。頭の中で大津波が起こっているようだと感じた。
「真琴はわかってない」
突然として飛んできた遙の冷たい声に、真琴の体が一瞬だけぶるりと震える。
遙は怒っていた。静かに。とても静かに怒っていた。
「真琴は全然わかってない。真琴は全部を背負おうとするから。一人だけで。誰にも言わずに。それでいつか勝手に爆発して。どうして俺をもっと頼ってくれない。いつもは嫌なくらいに察しがいいくせに。俺は真琴のそういうところが大嫌いだった。でもそれが、俺は何よりも好きなんだ。だから気持ち悪いとかそんなの思わない」
深い海を思わせる藍色の双眸が真琴をじっと見つめる。


俺だってもう友達ではいられない。遙と風鈴の優しい声が重なった。


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