うたかた

やっと本格的に活動の始まった岩鳶高校水泳部。授業後の活動時間の一分一秒でも無駄にしたくない遙は、そそくさと帰り支度をすませて教室を出た。隣席の真琴さえも置いて。真琴は少し悲しくなった。遙にとって水が何よりも大事なものだとは分かっているが、ちょっとぐらい待ってくれてもいいじゃないか、と。仮にも自分たちは親友と名のつく間柄ではないのか、と。
真琴は遙に遅れること数分でプールに到着した。着替えて更衣室の扉を開ける。広いプールサイドには渚しかいなかった。すかさず気づいた渚が両手を高く上げてブンブン左右に振り回した。今日も元気である。
自身の元に歩いてきた真琴とプール――正確には泳いでいる遙を交互に見ながら渚は
「やっほー! まこちゃん! 今日はハルちゃんと一緒じゃないんだね」
と言った。
「もたもたしてたら置いてかれちゃった。水には勝てないよ」
真琴が苦笑いで返す。
いわゆる酷暑と呼ばれる日なのだろう。上半分は裸という格好にもかかわらず、じわじわと汗が皮膚を覆ってゆく。太陽が己の存在を誇示するかのように強く輝いていた。
真琴が二人はどうしたのと聞く。江と怜のことだ。怜はいつも一番最初にやってくるので珍しいと真琴は思った。
「江ちゃんは用事あるから帰るって。怜ちゃんは委員の仕事。でももうすぐ――あ、来たみたい」
渚が真琴から視線を外して更衣室を見る。つられて真琴もそちらに目をやった。
「怜ちゃーん!」
真琴にしたように怜に向かっても渚は手をブンブン左右に振り回す。それに特に反応を示すことなく
「すいません。遅れました」
決まりの悪い顔をした怜は小さく頭を下げた。
「お仕事あったんでしょ。しょうがないよ」
「ですが先輩をお待たせするなんて……」
真琴は気にしなくてもいいよ、と言ったつもりが、大型犬のような笑顔と優しい言葉にあてられて怜の表情はさらに渋くなる。しかしそれはすぐに惚れ惚れとしたものへと変わった。怜の瞳はプールの中で泳ぐ遙に向いていた。
優雅で美しいながらもどこか強いエネルギーのようなものが感じられる泳ぎ。見ているだけで胸が高鳴るのが分かる。彼のようになりたいと感じさせる魅力が遙の泳ぎにはあった。
「遙先輩はまるで人魚のように泳ぎますね」
おそらく自分でも無意識だったのだと思う。高校生――しかも年上で男の人に何ということを言っているのか。たまらなくなった怜は、気を落ちつかせるために赤フレームのメガネを上下にカチャカチャさせた。
さて、一番最初に反応したのは渚だ。彼の笑い声がプールサイド全体に響く。バーガンディの小動物を想像させるくりくりとした大きな瞳が今は弧を描いていて、目尻には涙が溜まっていた。
「人魚だって。怜ちゃんってほんっとおもしろいよね。ね、マコちゃん」
渚が真琴に同意を求める。真琴はまるで自分が褒められたかのよう、恥ずかしそうな、それでいてどこか嬉しそうな顔をしてから静かにそうだなと笑う。
「そんなにおかしかったですか……」
怜の落胆の音は真っ青な空に吸い込まれていった。
*
「おまたせ。ハル。帰ろっか」
「ああ」
部長と言うからにはそれ相応の仕事もある。活動日誌の記入や施錠確認。それから活動終了の報告をすること。どれもこれもものの数分でこなせてしまえることだが、毎日となるとさすがに面倒なところもあった。
先に帰っていていいからと真琴は遙にいつも言っている。でも遙はちゃんと待っていてくれて。前言撤回。やはり自分たちは親友なのだ。
家路につくまでの道のりではだいたい真琴が話題を振って、遙が答えたり相槌を打ったりする。会話の内容は日によってまちまちだったけれど、今朝出会った猫が美人だったとか昨日やっていたテレビ番組がおもしろかっただとか、世間話が主である。
「今日怜がね。ハルのことを人魚みたいに泳ぐって」
それを真琴は普段どおりの軽い感じで切り出した。一瞬だけ遙の動きが止まる。真琴はそれが遙の癇に障ったのかと思い
「あ、ごめん。怒った?」
「……別に。怒ってない」
遙は海から視線を離さずに答える。
数時間ほど前まであんなにぎらぎら照りつけていた太陽が、今では暖かな光ですべてを包んでいた。
かの有名なアンデルセン童話の人魚姫。読んだのも随分昔だから細かいことは忘れてしまった。人魚姫が海に身を投げて泡に姿を変えてしまう、最後の場面が嫌に記憶に残っているだけで。
怜に言われたとき。真琴はたしかに湧きあがる喜悦を覚えたのだ。それと共に恐ろしさも。
遙もいつか自分の前からいなくなってしまうのだろうか。人魚姫のように。それは当然のことかもしれない。世の習いかもしれない。いつまでも同じままではいられないから。いつかは変わらなければならないのだから。
――だけど、まだ、どうか、
「ハル。手、繋いでもいいかな」


消えてしまわないで。


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