エウダイモニア

「――ねえ、ハルちゃん。知ってる?」


ある夏の日。七瀬遙と橘真琴はプールサイドである約束を交わした。


「男の子は十八歳になったら結婚できるんだって。だから僕が十八歳になったとき。ハルちゃんは僕と結婚するんだ」



「誕生日おめでとう、ハル。誕生日プレゼントだよ」
「ありがと」
「っていうか本当にプレゼント鯖寿司なんかでよかったの。もっと高校生らしいもの頼みなよ」
「じゃあ庭にプールがいい」
「それはさすがに無理だよハル……」
この幼馴染は本当に水が好きなのだと、真琴は思う。水が遙を生かせる。遙が水を生かせる。ひとたび水中に飛び込めばまるで水を得た魚のようになる。渚の言葉を借りるならば、彼はイルカになるのだ。
「来年は十八になるんだな。俺たち。なんだか大人にぐっと近づくような気持ちになるよ」
「……約束」
「え?」
「約束覚えてる」
「……忘れるわけ、ないじゃん。ちゃんと覚えてるよ。俺が言ったことなんだから。あれから何年たったんだっけ。考えるとあっという間にもう高校二年生だ」
(たしか小学……三年生ごろだったか)
スイミングクラブの練習が終わった後の二人きりのプールサイドで七瀬遙と橘真琴は約束を交わした。将来の約束を。
「俺さあ。親にそのこと言ってすっごい笑われたんだけど。男の子同士は結婚できないのよ、って」
「おばさんとおじさんに言っちゃったの!?」
真琴が驚きのあまり部活道具一式を収めたバッグを地面に落とす。ドサリという音がした。慌ててついてしまった砂を払い、それを再び肩にかけ直した彼は遙をまじまじと見た。
視線を向けられた遙がいけなかったわけ、と聞く。心なしか普段よりも無表情に拍車がかかっていて。これは遙が不機嫌になる一歩手前であるという合図である。お付き合いの長い真琴は嫌というほどにそれが分かっていた。
「ハル。ケンカ腰で返さないで。いけないとかじゃないって。ただ恥ずかしいってだけだよ。おばさんとおばさんひょっとして今でも覚えてんのかなー……」
真琴は記憶を探ってみる。遙の母が彼を一人残していく折、遙のこと頼んだわよ真琴ちゃん、と言われたのは果たして含みをこめたものだったのだろうか。今となっては知る由もないけれど。
「好きな人となら誰とだって結婚できるって思ってたんだよ。我ながらかわいいわ」
子供だったから道理なんて知らなかった。ただ本当に遙が好きで好きでたまらなかった。ただそれだけだった。
たしかに最近では同性結婚も珍しくはない。だが、彼らが話題にしているのはそういう話というわけではないのである。
梅雨の晴れ間――五月晴れに覗かせた太陽はすでに沈みかけていた。学校への行き帰りには海を見ることのできる道を遙は好んで選んでいる。毎日朝と夕の二回、遥は自分の居場所を見つめるのだ。

「でもさ。結婚できなくったって、ハルを幸せにすることはできるよ」

初めてそこで海を眺めていた遙が真琴に顔を向けた。しかし、再びすぐに海へと戻ってしまう。にっこりと優しく微笑んで真琴が遙の手を握った。改めてじっくり触れてみると、いつのまにか大きくなって立派な男の手になったんだな知る。自分も、遙も。
遙が小さく呟く。顔に紅葉が散っているのは夕焼けのせいなのか、あるいは――
「……まだ十六歳のくせに」



顔が、熱い。


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