私が学校から帰ってくると、まるで狙ったようにして家の電話が鳴り出した。慌ててローファーを脱いで玄関に上がる。こういう家に誰もいない中途半端な時間帯というのは不便だと思う。
「もしもし、藤井です。どちらさまですか」
『佳代、お母さんよ』
「お母さん? どうしたの?」
 受話器越しで聞く母の声は少し低くて、感情の起伏がわからなくなる。
 母は普段から電話が嫌いだと言っているような人間だった。人と会話するのであれば、やはりそこには体が存在しなければならない。声だけで伝えることのできるものなんてたかがしれている。
 だがその一方、彼女はメールは大好きで、年頃の女の子が使うような絵文字や顔文字のたくさんついたメールがよく送られてくる。家族なのに。
 そんな母であるので、これはよほど重大な要件ではないのかと身構えていると
『代わりに紗枝を保育園まで迎えにいってほしいの』
「いいけど。なんで?」
『仕事が長引いちゃいそうなの。ただでさえ普段から早く迎えに行ってあげられないのに、さらに遅くなるのは紗枝がかわいそうだもの』
 そう言われて時計を見ると、針はちょうど六時半をさしていた。最近勉強で学校に残ることが増えたために、時間の感覚が曖昧になっている。
 わかったと言って私は受話器を置こうとした。しかしその直前に
『佳代、携帯電話はちゃんと携帯しておかないと』
 と母がからかうような声を出すと彼女の方から電話を切った。私はベッドの上に放置してあった携帯電話をぼんやりと思い浮かべていた。

 

 紗枝は今年で六歳になる、歳の離れた私の妹だ。よく周りの人からは「あまり似ていない」と言われるが、それは年齢の差だけではなくて私たち二人の父親が違うことも原因だと思う。
 私がものごころついたときには、すでに私の実父はどこへなりと姿を消してしまっていた。母は父を愛していたようにも、愛していなかったようにも思える。けれど私が父について聞こうとすると、彼女は決まって頑なに口を閉ざそうとしたので、私はいつしか触れないようにしていた。だから私は彼のことをなにも知らない。
 紗枝の父親の記憶はまだ新しい。普段は温厚な人なのに、一度頭に血がのぼると手のつけられなくなる人だった。最後の夜、投げられたビール瓶がすぐ横をすりぬけていったことを覚えている。
 そんなことを思い出しながら、私は紗枝の通う保育園へ向かっている。かつて私も歩いていたこの道を通るのは久しぶりであった。
 大きな犬を飼っている家があって、実物を見たことはなかったけれどいつもその家の前を通ると鳴き声が聞こえて怖かった。まだ生きているのだろうか。
 保育園につくと数人の親が井戸端会議をしていた。私はそれを横目で見ながら門の内側に入る。
 保育園は外と部屋の中を仕切る大きな窓がすべて開け放たれていて、両方を自由に行き来できるようになっている。
 この保育園は比較的遅くまで子どもを預かってくれるものの、それでも六時をまわるとやはり残っている児童の数はどの教室も少ない。私が紗枝のクラスの前まで来たとき、彼女は児童のまばらになった教室の中で積み木を使い、城のようなものを作って遊んでいた。
その傍らに淡い緑色のエプロンをつけた男性が屈んで彼女に話しかけている。言葉は断片的にしか拾えないが、彼がなにかを言うたびに妹はしきりに喜んでいた。
「紗枝」
「お姉ちゃん!」
 私が名前を呼ぶと、彼女は花のような笑顔を見せてこちらへ駆けてきた。そのうしろで揺れた積み木たちが崩れる。
 この歳の離れた妹は私によく懐いてくれているらしい。彼女は私の腰に抱きつきながら
「今日お母さんは?」
「お母さんはお仕事で来れないから今日は私です」
 視線を下に動かすとちょうど綺麗につむじが見える。左巻きなのは母の遺伝だろうかとぼんやり思った。
「紗枝ちゃんのお姉さんですか」
 柔らかくて優しい声だ。紗枝の傍らにいた男性が目の前に来ていた。
 先ほどはよく見えず気づかなかったが、とても整った顔をした人だった。
 背が高くてしっかりとした体をしているのに、どこか柔らかい雰囲気があるのは少し垂れ気味の瞳を持っているからだろう。それはきっと、笑うと甘い表情になるに違いない。鼻筋はしっかりと通り、形のよい唇をしている。しかしなによりも、体中から健康的な匂いを立ちのぼらせている印象のあったことに好感を抱いた。
「初めまして、妹がいつもお世話になっています。姉の佳代と言います」
「こちらこそ初めまして。僕は紗枝ちゃんのクラスを受けもっている坂本明です」
 ああ、やっぱりだ、と私は確信を持った。彼の笑った顔はまるで綿菓子のようだった。そういえば、笑顔の素敵な人は育ちがいいとどこかで聞いたことがある。
「先生また明日ね。さよなら!」
 気づけば紗枝が鞄と靴を持ってきて帰り支度を始めていた。
「うん。明日も待ってるよ」
 大きな体を丸めてしゃがんだ坂本さんが、くしゃくしゃと紗枝の頭を撫でる。私が紗枝ぐらいの年だったときに同じことをしてもらっただろうかと考えていたら
「佳代ちゃんもまた来てね」
「え、あ、はい。来ます、また来ます」
 突然話の矛先を向けられたので驚いた。しどろもどろになりながらもなんとか答える。しかも結構本音を言ってしまった。
「じゃあ楽しみにしてるから」
 坂本さんが再び笑顔を見せる。先ほどよりもいい笑顔を。
 私は紗枝の手を取りながら、またじゃなくて絶対に来ようと密かに決意をした。

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